第10回読書会の記録

日程と題材

第10回の読書会は、2016年7月24日(日)に開催されました。出席者は3名でした。

阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書)を題材として、会員より発表があり、それを踏まえての討議を行いました。

発表内容(レジュメ)

テーマ:日本における個人 〜「世間」という名の桎梏〜

文献:阿部謹也『「世間」とは何か』(講談社現代新書)

<文献選択の理由>

我々は、「世間の常識」に影響を受けている。「常識」に従っていれば平穏に暮
らしていけるのかもしれない。しかし、いつの間にかその「常識」に飲み込まれ、
自分でものを考えない人間になってしまっているのではないか。「常識」が常識
であるが故に、その内容が人々の意識に上ることはほとんどない。(「世間」を含
めて)誰もそうしろとは言っていないのに、いつの間にか何かに誘導されるよう
に振る舞っていることもあれば、そのこと自体に気づいていないこともある。
そもそも、日本は近代化の過程で西欧の思想および技術の導入を図ったもの
の、西欧近代が生み出した「自律的な個人」というものを国民の間に扶殖するこ
とはなかった。もちろん、これは「上からの近代化」や「護送船団形式」には効
果的であったが、他方で「常識」を毫も疑わない、すなわち「自分の頭で考えな
い個人」を再生産させることにつながったともいえるだろう。
今回は、日本において人々の意識を規定してきた「世間」というものを考える
ことによって、日本における「個人」の位置づけを再検討する機会としたい。ま
た、その存在が所与とされてきた「世間」を再考することによって、平素は意識
されない部分を可視化し、たえず問いを向けていくという姿勢の重要性を再認
識する場になればと考えている。

<問題提起>

① 「世間」なければ個人なし?
個人が「世間」によって規定されるのであれば、各人が「自律した個人」と
して存在することは不可能である。そうだとすると、日本における個人を考
える際には、西欧における前近代の人間(身分制の桎梏から逃れられていな
い人間)と同じであるといえるのではないか。すなわち、日本では「自律し
た個人」など存在せず、どの「世間」に属しているか(すなわちどの「身分」
であるか)によってしか個人は把握され得ず、個人は「世間」という名の共
同体からその行動を規定されてしまう存在なのではないか。
(例)入社年次などにより、相手がどういう立場かを測り、自分が相手の前でど
のように振る舞えばよいのかを判断する1。そこでは、相手がどういう人物であ
るかをじっくりと観察することは稀である2。
(例)生まれた年や出身地を尋ねて、同世代や近隣地域の出身であればあたかも
相手のことがわかったかのように振る舞う3。
② 個人の責任とは?
個人の存在が「世間」から規定されるのであれば、個人の責任もまた「世間」
が規定するのか。そこで規定される責任とは何か。
(例)著名人の謝罪会見などでみられる「法的には問題はないが、倫理的には問
題がなかったとはいえない」という言葉には、「世間を騒がせてしまったことを
お詫びします」という言葉と同じものを感じる。すなわち、法的に問題がなかっ
たのならば、何故謝るのか。そこでいう「倫理的に問題がある」とは何か。
(例)著名人に限らず、謝罪会見などでは本人ではなくその親族が謝るというこ
とがしばしば見られるが、これは何故なのか?いったい誰が謝れば良いのか。
→責任の内容が曖昧模糊としているため、謝っている理由が不明である。

1 「世間」に存在する厳しい掟である「長幼の序」(a)の存在を目の当たりに
する典型例といえる。

2 もっとも、人は情報収集にかかるコストを勘案して相手との距離を測ること
もある以上、一概にこのことが悪いとまでは断じることはできない。ここで
は、相手のことを理解するために相手がどの「世間」に属しているのかを確認
する作業の必要性を否定しているのではなく、その作業に終始して相手のこと
をわかったつもりになることを問題としている。「あれ、この人は私と同じ
『世間』に属していいるはずなのに…」という懸念が出てきたときであって
も、相手がそれ以外の「世間」にも属しているからだと考える場合など、あた
かも「世間」の存在なしには相手のことを理解できないようになっているので
はないか、ということを問題とするものである。

3 これが同い年であれば、たとえ初対面であっても10 年来の親友のように振
る舞う人もいる。また、出身校が同じであれば、後輩にとっては急に先輩風と
いう強烈なアゲインストが吹き荒れるケースもみられる。いや、確かに共通項
があった方が話しやすいのだが、多少は行き過ぎと感じることも(私は)あ
る。やはり「世間」の掟は厳しいものがある。

<本文の要旨4>

「世間」の定義…個人個人を結ぶ関係の環である。
「世間」の性格
・会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結びつけている。
(会員名簿はないが、おおよその関係で「世間」の構成員を判断する)
・個人が自分からすすんで世間を作るわけではない。
・所与とみなされている5。
(何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている)
・世間には、形をもつものと形をもたないものがある。
・厳しい2つの掟がある。
(a) 長幼の序
(b) 贈与・互酬の原理
・「世間」の外部の人に対しては排他的・差別的である。
(自分達の「世間」の利害が最優先され、外部の人は「人間ですらない」)
「社会」との相違点
・「社会」…個人を前提とする。
譲り渡すことのできない尊厳をもつ個人が集まって社会を構成
→個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まる。
(社会を構成している最終的な単位は個人6)
西欧の歴史的背景の中で生み出されたかなり抽象的なもの。
(「世間」がもつ具体性を欠いている)

4 今回の文献においては、序章こそがキーになっており、第一章以下はその具
体例を示すものであると判断し、序章の内容を中心に要約した。

5 この「『世間』は所与とみなされている」という点にこそ、後述する問題提起
②にいう自己の責任が希薄化(または存在しない)している要因を見出すこと
ができる。

6 このように、社会は分析的に見ると個人が析出される構造になっている。こ
れに対して、「世間」をいくら分析的に見ても、個人は析出されない。「世間」
とは「個人個人を結ぶ関係の環」(16 頁)だからである。

【仮説①】

「何となく自分の位置がそこ(「世間」)にあるような気がする」ということか
らわかるように、日本においては属している「世間」があってはじめて人間は認
識可能な存在となっている。この点で、日本では社会の担い手としての「個人」
など存在しない。存在しているのは、「世間」によって承認された者のみである。
日本には西欧的な「自律的な個人」は登場しておらず、その意味では「近代」を
経験していはいないといえる7。

【仮説②】

倫理的に問題があるか否かを決めるのは、「世間」である。しかし、その「世
間」が目に見えないため、「誰が、何に対して、どこまで謝れば良い」という謝
罪における最低限のラインが見えないことが少なくない。おそらくそのライン
は「世間」の姿が明らかにならない以上、見えることはない8。結局「世間」の
意向を忖度して「謝っている」に過ぎず、そこでいう責任とは「『世間』をお騒
がせしたこと」に対するものである。すなわち、個人の責任は、「世間内責任」
でしかなく、「世間」が被った迷惑に関して、その原因を作り出した構成員が、
「世間」に向けてお詫びしているに過ぎない9。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に
人の世は住みにくい。」 〜夏目漱石『草枕』〜
以上

7 現代においても、江戸時代の村落共同体における「◯◯村の甲さんの次男」
などといった形でしかその人物を特定されないことがあるのは、上記のことを
示す例といえる。

8 これは、自分で自分の行動の責任を引き受ける態度の欠如に他ならない。も
っとも、責任などないのであるなら、それを引き受けることも不要であるとい
える。なお、この点につき、河合隼雄が指摘する「中空構造」や丸山真男の云
う「無責任の体系」および前回扱った『失敗の本質』に関する議論との関係も
想起されるが、今回はこれらの議論には立ち入らない。

9 当然、当該人物の謝罪を許すか否かは、「世間」が判断することとなる。「世
間」が目に見えないものである以上、構成員は空気を読むしかない。なお、空
気については、山本七平『「空気」の研究』(文春文庫,1883 年)を参照。

次回

次回の題材は、8月7日(日)18:00-20:00、丸山眞男「国民主義の『前期的』形成」(丸山眞男集第二巻)です。

<免責事項>

当サイトのすべてのコンテンツ・情報につきまして、可能な限り正確な情報を掲載するよう努めておりますが、必ずしも正確性・信頼性等を保証するものではありません。 当サイトに掲載された内容によって生じた損害等の一切の責任を負いかねます。 本免責事項、および、当サイトに掲載しているコンテンツ・情報は、予告なしに変更・削除されることがあります。 また、当サイトに掲載されるリンク先に関して一切の責任を負いかねます。 予めご了承下さい。